中村佑子『マザリング』読後メモ

中村佑子『マザリング 現代の母なる場所』を読み終えた。

いまの社会の中でのケアへの不当な扱われ方に、ずっと危機感を覚えている身からすると性別を超えて、ケアが必要な存在を守り育てるものと定義されるマザリングについて書かれたこの本には、こんなふうに思考している人がいるんだな、という慰めになるような一冊だった。それと同時に、マザリングという言葉が否応なしに想起させるという存在をどう捉えればいいのかに戸惑いもする。


家事労働の価値がないもののように扱われる今の社会で、女性に課されることの多い不平等な労働の問題は絶対におかしいことだし、現にこれを押し付けられている女性の多くはであるんだろう、という認識の上で、母の持つ特権性について考えざるを得ない。

だけが体験することができる妊娠・出産期の自己が開かれて、自己と他者の境界が曖昧になるような体験に言葉を与えて、その稀有な体験をこの社会の変革の手がかりの第一歩にすることへ希望を感じる。とともに、正直に書いてしまえば、が持つ特権性に、おそらくその特権性を持たないだろう自分は憂鬱な気持ちにならなくもなかった。

社会の中に明確にある男尊女卑の価値観を打ちこわしてほしい、という想いと、この本の中で想定される女性の地位向上のための重要な要素を持ち得ない自分というジレンマの中に置かれているな、ということを感じた。


でもこれは、ずっと言われてきたリーン・イン・フェミニズムの問題点とも重なる。母になることを選んだ(もしくは選ばざるを得なかった)女性からすれば、働くことで社会的な地位を得られた女性に対して、母の価値を高めることの重要性というのか、切実さはきっとあるよな、と思う。でも、そうだとしたら、母でもなく、仕事で高い地位を得ることも出来ない人は?

それでも問題の本質は、シス男性に対してそうでないセクシャルの人たちが不当に貶められているということ。そのことを全ての問題の構図に引き摺り込んでくることなんだってことを忘れないようにしたい。決してマイソリティ同士で対立を作りたいわけではない。この作品の中でも、このもやもやに対しては特にイケムラレイコさんのお話にはぐっとくるものがあった。



というものへの戸惑いが、読んでいく内に少しずつ積もって大きくなってしまったけれど、読んでいて序盤から感じていたことはこの本に貫かれている価値観への共感とその価値観を伝えることの難しさだった。

今の資本主義のシステムに危機感を覚えて、言葉にできない境界が滲んでいくような曖昧なものをを大切にしたいという中村さんの一貫した想いは素敵で、私も比較的似たような想いを持っているから、共感する部分も多かった。その一方で、こういう考えをスピリチュアルなものとして嘲笑するような雰囲気が社会の中にあるのも痛感していて、ここの溝もどうやったら埋まっていくんだろう。以前、似たような思考の友人と『呪術廻戦』の中で、沙織ちゃんが田舎に引っ越した経験を、母親がオーガニックでスピリチュアルなヤバい女だから〜と同僚に話すシーンを読んで、身に刺さったというような話をして笑っていたんだけれど、その話をしてからというものの度々その台詞が思い浮かんできて結構しんどい。


わたしはそういう曖昧なものを大切に思っているし、大切にしたいけれど、そうではない人にスピじゃんって嘲笑されないような雰囲気が社会の中でつくって行けたらいいのになって思う。理解してほしいとかは思わないけれど、卑下にはされたくない。


お正月に箱根の温泉に行ったときに自然に囲まれた部屋の中でこの本を読みすすめられてよかったな、って思う。帰ってきて家や電車の中で読み終えたいま、とても自然の中にいきたい、また山に早くいきたいな。